2020年11月13日
有盛神社絵馬
浦上町にある、有盛神社に明治初期に奉納されている「絵馬」です!
横長の板額に左に弓を引く人、右側に馬上の人物を描いている。
弓を引く人物は名将源為朝と思われ、保元の乱で敗れて捕らえられ伊豆大島に流されてそこで没した。
しかし、密かに琉球に渡り、舜天王を生んだという伝説があり、奄美や薩摩にも立ち寄ったと伝えられている。
この絵馬は、明治21年に奉納されたもので、職業絵師による製作であり、23人の奉納者の名前も墨書きされている。

横長の板額に左に弓を引く人、右側に馬上の人物を描いている。
弓を引く人物は名将源為朝と思われ、保元の乱で敗れて捕らえられ伊豆大島に流されてそこで没した。
しかし、密かに琉球に渡り、舜天王を生んだという伝説があり、奄美や薩摩にも立ち寄ったと伝えられている。
この絵馬は、明治21年に奉納されたもので、職業絵師による製作であり、23人の奉納者の名前も墨書きされている。

2019年07月05日
たなばた!
七夕は「たなばた」または「しちせき」とも読み、古くから行われている日本のお祭り行事で、
一年間の重要な節句をあらわす五節句のひとつにも数えられています。
毎年7月7日の夜に、願いごとを書いた色とりどりの短冊や飾りを笹の葉につるし、
星にお祈りをする習慣が今も残ります。みなさんも子供のころ、
たくさんの短冊をつるしておりひめとひこぼしにお願いごとをしたのではないでしょうか?
では七夕はいったいいつから、どのようにして始まったのでしょうか?
その起源には数多く説がありますが、
(1)もともと日本の神事であった「棚機(たなばた)」と
(2)おりひめとひこぼしの伝説と
(3)奈良時代に中国から伝来した「乞巧奠(きこうでん)」
という行事があわさったものと言われています。

一年間の重要な節句をあらわす五節句のひとつにも数えられています。
毎年7月7日の夜に、願いごとを書いた色とりどりの短冊や飾りを笹の葉につるし、
星にお祈りをする習慣が今も残ります。みなさんも子供のころ、
たくさんの短冊をつるしておりひめとひこぼしにお願いごとをしたのではないでしょうか?
では七夕はいったいいつから、どのようにして始まったのでしょうか?
その起源には数多く説がありますが、
(1)もともと日本の神事であった「棚機(たなばた)」と
(2)おりひめとひこぼしの伝説と
(3)奈良時代に中国から伝来した「乞巧奠(きこうでん)」
という行事があわさったものと言われています。

2018年06月14日
有盛神社改修委員会募金について
有盛神社の改修委員会が、新聞広告も出しています。
有盛神社の杜は、奄美市の文化財に指定されていますが、社殿は町内会の所有です!
社殿内には「石造弁財天座像」(市指定文化財)が祀られており、雨漏り屋根の修理が急がれています。
ご協力をお願いいたします!

有盛神社の杜は、奄美市の文化財に指定されていますが、社殿は町内会の所有です!
社殿内には「石造弁財天座像」(市指定文化財)が祀られており、雨漏り屋根の修理が急がれています。
ご協力をお願いいたします!

2018年02月16日
平有盛の墓
平 有盛(たいら の ありもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平重盛の四男。母は正室の藤原経子。
異母兄の資盛に従い、三草山の戦いに参戦。源義経に敗れた後は、屋島の平家本陣に落ち延びた。最後は壇ノ浦の戦いにおいて、資盛、従兄の行盛と三名で手を取り合い、海中に身を投じた。享年22。
奄美群島には資盛、行盛、有盛が落ち延びたという平家の落人伝説がある。行盛神社、有盛神社、資盛の大屯神社が祀られ、特に平安文化が融合した諸鈍シバヤは重要無形民俗文化財に指定されている。
また、香川県観音寺市大野原町五郷有木に、平有盛が有木と名を変えて暮らしていた平家落人村があったことが、生駒記「新編丸亀市史4資料編:平成六年刊行」に記載されており、太刀や木造阿弥陀如来座像も残されている。

浦上有盛神社の墓
異母兄の資盛に従い、三草山の戦いに参戦。源義経に敗れた後は、屋島の平家本陣に落ち延びた。最後は壇ノ浦の戦いにおいて、資盛、従兄の行盛と三名で手を取り合い、海中に身を投じた。享年22。
奄美群島には資盛、行盛、有盛が落ち延びたという平家の落人伝説がある。行盛神社、有盛神社、資盛の大屯神社が祀られ、特に平安文化が融合した諸鈍シバヤは重要無形民俗文化財に指定されている。
また、香川県観音寺市大野原町五郷有木に、平有盛が有木と名を変えて暮らしていた平家落人村があったことが、生駒記「新編丸亀市史4資料編:平成六年刊行」に記載されており、太刀や木造阿弥陀如来座像も残されている。

浦上有盛神社の墓