2020年11月30日
有盛神社鳥居
奄美には、資盛(すけもり)・行盛(ゆきもり)・有盛(ありもり)の平家三将が落ち延び、諸鈍・戸口・浦上にそれぞれ城を構えたという伝説が残っています。
中でも、浦上の城跡である有盛神社は、今も地域にとって重要な場所であり続けています。
壇ノ浦の戦い(1185)で源氏に敗れた平氏の残党が落ち延びてきた、という伝承が奄美の各地に数多く残っている。平 行盛(たいらのゆきもり)、平 有盛(たいらのありもり)、平 資盛(たいらのすけもり)は、最初は喜界島に逃れ、後に大島にわたってきた。行盛は龍郷町戸口に、有盛は名瀬の浦上に、資盛は瀬戸内町加計呂麻島の諸鈍に居を構え、家来を各地に配備し、源氏の追随に備えていた、との伝承がある。この3箇所の地には、3人を祀った神社が建立されてい。(行盛神社、有盛神社、大屯神社)有盛神社には、薩摩藩の役人・田代清方(たしろきよかた)が航海安全を祈願したご神体(石造弁才天像)を寄進しています。また、境内の奥地・丘陵の頂上付近には、大島代官・肥後翁助(ひごおうすけ)が文化13年(1816)に寄進建立した平有盛の墓碑があります。
鳥居は浦上出身の里さんが寄進されています!
引用元 https://www.city.amami.lg.jp/.../bunka/bunkazai/shite.html



中でも、浦上の城跡である有盛神社は、今も地域にとって重要な場所であり続けています。
壇ノ浦の戦い(1185)で源氏に敗れた平氏の残党が落ち延びてきた、という伝承が奄美の各地に数多く残っている。平 行盛(たいらのゆきもり)、平 有盛(たいらのありもり)、平 資盛(たいらのすけもり)は、最初は喜界島に逃れ、後に大島にわたってきた。行盛は龍郷町戸口に、有盛は名瀬の浦上に、資盛は瀬戸内町加計呂麻島の諸鈍に居を構え、家来を各地に配備し、源氏の追随に備えていた、との伝承がある。この3箇所の地には、3人を祀った神社が建立されてい。(行盛神社、有盛神社、大屯神社)有盛神社には、薩摩藩の役人・田代清方(たしろきよかた)が航海安全を祈願したご神体(石造弁才天像)を寄進しています。また、境内の奥地・丘陵の頂上付近には、大島代官・肥後翁助(ひごおうすけ)が文化13年(1816)に寄進建立した平有盛の墓碑があります。
鳥居は浦上出身の里さんが寄進されています!
引用元 https://www.city.amami.lg.jp/.../bunka/bunkazai/shite.html


